創業200年の八代目がつくる、したたかな越前の漆椀 漆琳堂
漆琳堂の創業は1793年(寛政4年)、200年以上も続く塗師のお家。お話してくださった内田徹さんは初代の内田忠左衛門さんから数えて八代目を継承予定。2013年には、県内最年少で伝統工芸士に認定されました。
家業を意識したきっかけは教育実習。内田さんはもともと体育大学で教員を目指していましたが、母校の中学へ通ううちに、これまであまり間ぢかに見ることがなかったおじいさんとお父さんの仕事に接することができました。将来を考えるタイミングだった内田さんは、自分の家の仕事・歴史を含めて深く考えた結果、教員免許はとったものの、塗師の世界へ飛び込むことになりました。
200年の家業の重みを実感した、刷毛
塗師や漆器の作家になるには、だいたい輪島などの産地で修行を積み勤め上げ、さらに独立するときには、漆専用の刷毛などの高価な道具が必要になるのだそうです。
将来について考えていた頃、師匠でもあるおじいさんに「ここには、お前が塗師になって、死んでまた生まれ変わっても使い続けるほどの量の刷毛がある」と言われました。
刷毛を見て家業の重みを実感したのだそうです。
お前の手は塗師向きだなぁ
と、子供のころからお父さんとおじいさんに言われていた気がする。
直接的に『継げ』と言われたことはないけど、お椀を持つたびにこの言葉を言われたことを覚えているんだとか。無意識に刷り込まれてたかもしれません、と笑ってお話ししてくれました。
漆器は湿気がたいせつ
漆器の産地は北陸・東北など寒く湿った気候の土地が適しています。
その理由は漆が湿度によって硬くなるから。漆は空気の中にある湿気を吸収しながら、自分の中に持つ湿気を吐き出して硬くなっていく。
漆を塗った後は乾燥するのではなく、「硬化する」という言葉を内田さんは使います。
ここ福井県鯖江市河和田も、山に囲まれ冬の空は曇が多く足元から伝わる寒さ、僕たちには厳しいお天気も、漆器づくりに適した環境でした。
漆器づくりのベスポジ、福井県河和田
越前漆器の産地としての歴史は漆琳堂さんのホームページにもくわしく書いてある通り、古墳時代から。平安時代には租税ではなく、越前では漆を納めることが許されていました。
また、信仰心の厚い土地柄も産地として発展した理由の一つ。北陸地方は浄土真宗が盛んで「報恩講」という親鸞上人の命日である1月15日に食べるイベントがあります。そのイベントで使用する8つ重なったお椀「八十椀(または八重椀=はちじゅうわんと読みます)」を作るために現在の産地がその技術を集積し、江戸の後半や明治時代に料亭に卸すようになった、という歴史もあります。
伝統工芸品というよりも普段使いな越前漆器
越前漆器は伝統工芸というよりも料亭・ホテルなどの業務用が中心。特に蓋つきの汁椀が中心で、東京の築地や合羽橋、大阪の道具屋筋などに並びます。内田さんの曾祖父からの百年近くもの取引先も多いのだそうです。
漆椀といえば赤と黒が定番。そして、越前の漆椀の特徴はなんといっても蒔絵。
服と同じように季節に合わせて柄の異なる器を使いわけていました。一家にいくつものセットがあったなんて、贅沢だなぁ。
「工芸品と普段使いの差はあまり意識したことはない」
漆器を含む伝統工芸品ではその技法を守ることに目が行きがちですが、越前のモノづくりマインドは、何よりも実際に使ってもらうことを目的にしています。
漆琳堂でもその思いは継承され、さまざまな企みや試みが実行されました。
選びたい、にこたえるカラフルな商品
赤や黒のツヤ(ピカピカな感じ)も漆器”らしさ”の特徴ですが、最近は選ぶ楽しさに応えるためにカラフルな色使いのものやツートンな配色にも積極的に取り組んでいます。マットな手触りのものが最近人気。
ツートンカラーな高台は手塗りの証
高台(茶碗・お椀の底にある輪状の基台のこと)の色が違うのは、吹き付けではなく、刷毛で塗り分けたから。つまり、手塗りの証拠。
ウレタン塗装などいろいろな技術が生まれる中、手塗りの技法は守りながら、利用シーンにあった商品を作っていく、これが越前の塗師の考え方です。
漆器は20〜30年前の商品でも売ろうと思えば売れる商品、でも
自己満足で寂しいなぁ、と思っていた中、色つきの商品を作ってみました。
師匠であるおじいさんの反応はやはり「そんな商品売れないからやめとけ!」
が、売れてみるとだんだん納得してくれました。よかった!
このお椀は釉薬を垂らした感じにしたんだけど、もう少し頑張る(内田さん)
お汁、お吸い物のポジションの変化に対応
吸い物椀は四寸(12cmくらい)が正当なものとされていますが、最近は家庭向けに少し小ぶりなものが出ています。食器置き場の省スペースはもちろん、昔は一汁三菜だった日本の食生活が、いろんなちょっとしたおかずが増え、お汁のおかずとしてのポジションが変わり、食卓にいろんなお皿が並ぶようになってやや小さめのものが好まれるようになったのだとか。
電子レンジや食洗機など、今ドキの調理環境に対応
大学と共同で積極的に新商品づくりにも取り組んでいます。たとえば電子レンジやスチーム料理にも使えて、食洗機にも対応できる強度・耐性に優れた商品を現在、開発中。大量の器を扱い手早く洗わなければならない、料亭はもちろん、旅館や病院など業務向けの利用シーンに配慮しています。
もちろん、修理承ります
修理に力を入れているのも漆琳堂のスタイル。なんと漆器はもちろん陶器もオッケー。
料亭を始めとするお客さんから修理の依頼が引きも切りません。
修理の繁忙期は2~3月。取材に伺ったのは、ちょうど2月で修理の依頼がたくさんありました。
お正月で登場回数の多かったお椀達。
白くマークされたところが修繕すべきところ。当然ですが、それぞれ場所が違います。
どこを直すか探すのも大変そうです。
ご苦労様、きちんと修理してもらって、また活躍するんだよ。
修理は腕の見せ所だからね!
正直、修理はお金のことだけを考えると合わないお仕事。(一個数千円、修理の内容によります)新品を売ったほうが効率的です。
しかし、漆椀は修理が可能。たとえば、お嫁入り道具としておばあさんから受け継いだおばあさんからの依頼や、いつ作ったかわからないけどずっと前に漆琳堂が収めた品物が里帰りしたりすることもあるそうです。
お客さんに長く使ってもらうことはもちろん、修理から新しいお客さんにつながることもある、それに何よりも技術の見せ場だから、喜んで修理をさせてもらいなさい、とおじいさんに言われました。だからホームページにも「修理」の事が堂々と書かれています。漆琳堂代々の教えが受け継がれています。
中塗りを終えたうつわたち
仕上げの上塗りの手前。出来上がりにも見えるけど(僕はこれでも十分立派に見えます!)、実はまだ半製品の状態で、これから研がれます。
研いでいきます
この研ぎマシーンは「真空ろくろ」といいます。
お椀の底の部分を真空で吸いつけ、くっつけて回転。とっても便利で両手が使えます。このマシーンは福井の人が開発して全国の漆器づくりの現場に広まっていったんだとか。ニッチだけど、現場を知ってる発明品です。
道具も自分で作ります。
内塗りはひのきベラで塗っていきます。
お椀にあてて塗る部分に合わせていろんなRのへらが必要。
素材はヒノキ。しなって木の年輪が狭いので筋がつかないからこの作業に向いています。
このヘラは売っているんじゃなくて、小刀で自ら削って作ります。
昔の職人の世界では「これさえ持っていれば国を渡れる」と言われていた小刀。
小刀で道具を作って素材は現地で調達、何かをつくって商売が成り立ち諸国を渡り歩けたそうです。カッコイイな。
上塗り用の漆の調合します。
これが漆。
生漆(きうるし)は半透明ですが、赤っぽい色をしているので、
白の顔料と混ぜても真っ白にはならず、薄茶色になります。(紅茶にミルクを入れるみたいなイメージ)したがって、真っ白な漆器というのは世の中にありません。
この漆にいろいろな顔料を調合して色を作り出していきます。
調合具合がメモされている。
その後不純物を除くために「吉野紙」という漆を濾す紙を使ってキレイな上塗り漆にします。
緊張の上塗り部屋
今日は塗る作業はやっていないというか、上塗り作業の見学はNG。
一子相伝の奥義を守るとかいうことではなく、ホコリが舞ったり、部屋の空気が乱れて塗師さんの調子を狂わせてはいけないから。
作業部屋は毎朝掃除して水拭き。空気や湿度も最適に保つためにいろいろを気をつけなければなりません。
塗師さんにとって毎日、天気予報は欠かせないもの。天気や気温以外にも乾燥注意報や風向きまで見ます。
そして同じ福井県嶺北地方でご近所の塗師さんとでも、建物の日当たりや山裾かどうかなどによって空調や湿度のセッティングが変わります。温度と湿度にとても神経を使います。
温度計湿度計は当然。
漆の硬化に最適な環境は酵素が働く気温20度、湿度50%くらい。ちょうど人間が過ごしやすい温度・湿度です。
漆の上塗の後は、回転風呂(かいてんぶろ、回転室とも言います)を使います。
漆器を硬化させるための箱で、回転するのはお椀の上下で漆がムラにならないように。
内部では、塗りたて、乾く寸前など状態によって異なる最適な湿度に保たれます。塗りたては1分おき、翌日には10分おきといった具合で自動的に回転するような仕掛け。
中はこんな感じ。
びんつけという器具がお椀の高台につけられ、そのセットが行儀よく並んでいます。
この回転風呂の中に塗ったお椀を置いておきます。
この風呂の場合は3つのブロックに分かれていて塗ったタイミングによって部屋が分かれています。
それぞれの部屋ごとに湿らせたスポンジを置くなどで最適な湿度を保つようになっています。
今は自動化されていますが、昔はこの回転風呂は、横に車輪がつき、そしてだいたい土蔵の2階にありました。
1階部分では、若手の塗師や小僧さんがエイヤッ、コラショッと紐を引っ張って回していたんですって。
高台の底を最後に塗って完成。
ちなみに、漆器の高台の底の色は黒。
赤は高貴な色なので、底に使うことはできず正統な漆椀の高台の色は黒とされています。
生まれ変わっても使えるほどの道具
内田さんが家業を意識したという刷毛です。
この刷毛一本でだいたい10年くらい使います。長く使うものなので、1本数万円。
この柄の中には毛(人の毛です)が先から先まで張られていて、使い込んで毛先が揃わなくなると、
柄を削り中の毛を出し、先を切りそろえます。だから気に入った刷毛は短かくなります。確かに生まれ変わっても使える数です。
復活の木
日本の漆は明治の末から大正期にはほぼ中国産のものに替わってしまいました。
国内産の漆と言われているものであっても、実は中国製をベースに日本産のものを一定割合混ぜたものがあるのだとか。
漆の木は「掻き殺し」といって、漆を掻き出してしまうと枯れてしまいます。だいたい20年生の木で採れるのは250ml(牛乳1パック、小さい方の)くらい。
さらに漆の木は群生することが難しく、たとえ上手く生育しても、同じ場所ではなく隣の山だったり、谷を越えていかないといけないことも珍しくありません。漆の植林も容易ではなく、しかも6−9月の夏の盛りの時期にしか採取できないため、需要の縮小も手伝って漆掻き職人の数も減ってきています。
しかし漆は根を生かしてそこから再び育ちはじめることから「復活の木」とも呼ばれます。
生まれた時から国内産の漆は少なかったので、手元にある素材から最高の漆椀を作るだけ、と内田さん。
しかし、漆の植樹の技術の研究・開発が進み、また漆が増えて、うるし公園みたいなものができれば良いな、そして100%Japan madeの漆を使ってみたい、と夢も語ってくれました。
漆器の時代がまた必ず来る
器としてはタッパーなどの石油製品に変わられた漆ですが、石油がなくなり漆の植林ができるようになれば、また木製品の時代が来ると言います。漆の器は、木地としての木材も漆も再生可能な資源から生まれます。
学校のクラスには必ず居てる漆器屋さんの次世代
越前の漆器で働く人たちは、分業で効率的。
木地作り、塗り、研ぎ師、問屋さん、蒔絵師、でもみんな外から見ると漆器屋さんと呼ばれています。さらに同じ塗師でも、お椀など丸い形状を担当する丸物師(まるものし)、角物師(かくものし)と分かれています。
それぞれ分担して、補い合い、いうなれば一つのチーム。
そして、内田さん自身もお子さん達も、お家でやっていることは違えど、学校のクラスでは「漆器屋さん」の同級生が必ずいるほどの土地。
漆の原材料を調達する業者さんや製造、販売の問屋さんなどの流通も含めて、業界全体が盛り上がっていく必要があります。
内田さんの直近の目標は、現在改装中の自社のミュージアムと店内ショップ。
他にも自社ブランドなどいろんなことを計画中。
使ってもらうことを何よりも大切にし、柔軟でしたたかな越前の漆職人たちの魂は、これまでのように守るべきものと育むべきものを見極めながら、きっとしぶとく生き残っていくと実感することのできた見学でした。
また完成したらぜひお伺いさせてくださいね。
(text:西村 photo:市岡)
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