久留米絣とテキスタイルについて学ぶ。産地デザインキャンプ in 広川町参加レポート -前編-
今日のしゃかいか!は福岡県八女市からお届けします。
UNAラボラトリーズさん(通称:ウナラボ)の「産地デザインキャンプ」に密着同行させてもらいます。
「産地デザインキャンプ」はさまざまな産地、産業、工芸の取り組みを学び意見交換を行う「産地経営サミット」の活動の一環で、広川町を中心としたちくごエリアのテキスタイル、とりわけ久留米絣の産地のポテンシャルを知り、新たな可能性を考えるプログラムです。全国から久留米絣ラブ&着物やもんぺサイコー&藍染め大好きなメンバーが4日間かけて久留米絣や藍染の織元や染め屋さんを訪ね、工場見学や体験プログラムを通して、筑後地域のテキスタイル産地についてのアイデアを発表します。
産地デザインキャンプのコースはこんな感じです!
(1)うなぎの寝床(九州筑後の地域文化商社)
うなぎの寝床代表の白水さんから筑後エリアの歴史や地域性といった基礎知識を学んだ後、当地のものづくりについて実際のモノに触れ、お話を聞いたり見たりお買い物したり。あの現代風もんぺが生まれた裏話も!
(2)下川織物(久留米絣の織り)
世界中のトップブランドに採用されるデザイン性と品質を備えた久留米絣を織り上げ、その魅力を年間1000人以上もの見学者に伝え続ける下川織物の三代目、下川強臓(しもがわ きょうぞう)さんガイドによる工場見学。
(3)藍染絣工房(久留米絣の染め)
48種類あると言われる藍色を染め分ける染めの匠、藍染絣工房 山村健(やまむら たけし)さんによる染め場の見学とアートピース制作。
(4)宝島染工(天然染料の藍染め)
天然染料のインド藍や蓼藍に特化。よりたくさんの人に手軽に藍染めのテキスタイルを楽しんでもらう宝島染工の大籠千春(おおごもりちはる)さんによる染め技法のレクチャーとTシャツの藍染めワークショップ。
(5)筑後染織協同組合(染めの工場見学)
地域の糸染めの工房を共同染色加工場として集約。久留米絣の製法「先染め」の伝統を守りながら最新の技術や機械を取り入れ発展してきた筑後染織協同組合の工場見学。
(6)このツアーの成果を参加者が発表「産地デザインキャンプ」
どうですか!楽しみしかないでしょ!
では、最初の見学先であるうなぎの寝床の旧寺崎邸で筑後のことについて学びます。
地域文化商社とは?うなぎの寝床の活動と現代風もんぺ誕生の話を聞く!
うなぎの寝床の白水さんです。
うなぎの寝床の活動について教えてもらいます。まずは活動している筑後というエリアについて。
筑後地方は今も色々つながりが強い地域
筑後地方は福岡県の県南地域を指します。北部の筑後川と南部の矢部川の水運を生かして、上流のかつての星野村(現在は八女市に編入)の竹を有明海に運んで海苔づくりに使う支柱に使ったり、船大工の木工の技術を利用した仏壇づくりや、こうぞの樹皮を使用した和紙づくりなど久留米絣以外にもさまざまな産業や工芸が生まれた地域。藩の城下町だった久留米を中心とした経済圏が作られ、ものや人のつながりが現在も残っています。
うなぎの寝床のある八女市は全国的に有名な八女茶や、みかんやぶどうといった果物の生産が盛ん。あちこちで茶畑やハウスを見ることができます。熊本県に接していて阿蘇山の大爆発で積もった細かい凝灰岩を利用した石灯籠でも知られています。市域に点在する古墳群では土の埴輪ではなく、石の像である石人石馬(せきじんせきば)が出土し、古代は独自の文化が成り立っていたことがわかります。八女市の隣の広川町も山と緑ののどかな田園風景が広がりますが、高速道路と接する町の北部では、優良企業の集積する工業団地やお休み期間には旅行客や家族連れで賑わう広川サービスエリアもあります。今回のツアーではこの八女市と広川町を中心に、周辺の筑後市や大木町も巡ります。
久留米絣は先染め(さきぞめ)で防染(ぼうせん)
次に久留米絣の基礎知識を学びます。
久留米絣の絣というのは技法を指します。服を染める方法には大きく分けると「先染め」「後染め」という2つの方法があり、服や布を織ったり編んだりした後に一気に染めるやり方が主流でこれが後染めです。そして先に染めておいた糸で生地や服に仕立てていくのが、絣をはじめとする先染めという技法です。
そして、久留米絣を定義するもう一つが「防染」。防染は糸(A)を染めるときに、別の糸(B)で部分的に縛っておき染液につけて染める。その後、縛っておいた糸(B)を解くと、糸(A)は染まっている部分と染まっていない部分で斑になり、その糸で織物を作ると絣になります。この防染と先染めという技術を用いて、糸を染め生地を織り上げるのが絣です(だいぶ端折って書きました)。
この防染の先染めという技法は古くからあり、発祥はインド。IKAT(イカット)とインドで呼ばれていたものが、インドネシアやフィリピンなどの東南アジアを経由し、沖縄(15世紀)へ、その後九州に入り久留米に到達したのが西暦1800年頃のことで、さらに本土に入り京都や日本全国に広がっていきました。
久留米絣はおしゃれ織工少女の発明だった
このようなルートで久留米に伝わった絣を「久留米絣」として発展させたのが井上伝さんという女の子でした(当時なんと12歳!)。
もともとこの筑後地域は農家の副業として織物を作っていて、糸の原料になる綿花と染めの原料となる藍の産地で織物づくりが盛んな土地柄でした。その理由の一つがひんぱんに氾濫する筑後川の存在。「筑紫次郎」とあだ名され日本三大暴れ川の1つに数えられるほどだった筑後川は江戸時代後期は特に水害が多く、お百姓さんたちは大水で流さてしまった農地に綿花や藍を育て織物をすることによってなんとか飢えをしのぐ事ができました。藍は毎年同じ場所で育てることできない植物(土地の栄養バランスを変えてしまうため連作できない=連作障害)だったため、皮肉にも川の氾濫によって、土地の質が変わった方がかえって生育条件が向上するという理由があったためです。
そんな織物の盛んな土地で生まれたお伝ちゃん。きっと織機を動かしながら思いついたのでしょう「これで思い通りの柄ができたらかわくない?」。久留米のおしゃれ織工ガールお伝ちゃんはさまざまなデザインと糸の染め方、生地の織り方などの研究を重ね、多くの人の協力してもらいながら技法を確立。お伝ちゃん自ら「加寿利」と名づけた藍と白のコントラストの美しい柄の着物や反物は話題になり、やがてその技が地域に広がり久留米絣になったとさ。
井上伝さんです。
写真提供:公益財団法人久留米絣技術保存会
その後、久留米絣は藩の奨励品、明治期にはこの地域の特産品となりましたが、全国に広がるきっかけになったのは久留米にあった旧陸軍の師団の存在。各地から久留米に訓練に来ていた若者たちが土産として、当時のファッションの最先端だった久留米絣を故郷に持ち帰り全国にその名が広がったと言われています。
現在、久留米絣は、備後や伊予とともに日本三大絣と呼ばれていますが、備後絣は帆布やデニム(岡山・児島や広島・福山)、伊予絣はタオル(今治タオル)へと移行し、現在も産業として残っているのは久留米絣だけになっています。
ちなみに経済産業大臣指定伝統的工芸品としての久留米絣は使用する原料や織機、染めの回数、生地の幅といった工程など細かく決められています。したがって蓼藍以外の染料や綿以外の糸を使用したり、先染めでも無地の生地や服や、最新の高速織機で作ったものはこの地域で作られたものでも厳密には久留米絣と呼ぶことはできません。伝統的な柄や意匠を用いているかや、色の濃さは久留米絣かどうかには関係ありません。
現在の久留米絣を取り巻く環境
白水さんによると、現在も産業として成り立っている理由は久留米絣の流通構造にあるのだそうです。
「百貨店の催事場で売っているような伝統工芸品の布もの全体としての大消費地が京都、愛知、東京。戦後すぐの頃くらいの昔の流通だと、まずは京都に商品が入り、そこで売れなかったものが東京に行き、東京で売れなかったものが愛知に行きます。さらにそこから北陸の方に流れたり東北に流れていったようです。つまり、沖縄含め全国の布を京都の問屋さんがまずは買い付け、京都を経由して先ほどの流れで全国に広がっていくといった流れでした。産地の生産者たちが頑張って自分たちで販路を作ろうとしてるけど、基本的にほとんど京都の問屋さんが産地を回りながら仕入れてたっていうのが、これまでです。
その後、織機は高速化効率化を追い求めてどんどん性能がアップしていきます。最近のものだと水圧や空気圧で糸を飛ばす超高性能の織機もあるんですけど、今はデニムの産地になった広島の福山や岡山の児島、兵庫の播州織では、そういった最新の機械が普及してどんどん量産の流れになっていきました。
しかし、久留米では昔ながらの自動車のトヨタの源流の豊田自動織機が開発した頃の織機を現在も使っていて、着物で使う小幅の36cmの生地を織る機械です。こんなふうに量産ではなく、距離的にも少し離れているせいもあって、京都や中央の問屋さんが九州までわざわざ布の買い付けに来なかったんです。だからこの地域の久留米商人って言われてた人たちは、大都会や地方都市の百貨店に自ら行って売るっていうモデルを逆に確立して、行商が発展した地域だったんです。だから、大きくはないけど産地としての規模を維持しながら残っています」。
呉服屋さんやデパート、土産屋さんで取り扱われている久留米絣は、最近はあまり元気がありません。洋装化や小売業界の競争激化といったこれまでの縮小傾向に加え、コロナが追い討ちとなり、販路が塞がったような状況になっています。今回の産地デザインキャンプでは、この久留米絣の産地としての強化や立て直しをする上で、外の人の素直な目線で現地を回りその魅力の再発見や発信につなげよう、というミッションが課されています。
久留米絣のポジションや環境といったものがだんだん少しわかってきたゾ。
続いて、うなぎの寝床旧寺崎邸のお店へ行きます。
うなぎの寝床旧寺崎邸は九州を中心とした地域の産品をセレクトした売り場で、主に住と食に関する雑貨などが所狭しと並んでいます。このお店は古民家を改装したもので、間口が狭くて奥行きが長い。だから会社の名前もここにちなんで「うなぎの寝床」になったんですね。
「地域文化商社」うなぎの寝床の役割
うなぎの寝床ができたのは2012年。その土地の背景や産地の背景や成り立ちをどう伝えるのかを軸に、ものを売ったりサービスを作っている“地域文化商社”です。
「筑後には地域文化や地域資源がわりとたくさんあって、それを担ってる農業・漁業・林業・ものづくりをいろんな人が営んでいて、その人とたち土地との関係で文化が生まれていると思ってるんですけど、一方で問屋さんといわれるようなつなぎ手のような人たちの存在がこの地域は結構欠けていて、単に右から左に流していくような仕事ではもう破綻し始めてるっていうのが正直なところで...僕らはこの部分にテコ入れはちゃんとしないと、なかなか伝わらないなっていうところが問題意識としてあります。
作り手や地域文化の解釈をしっかりしたつなぎ手によって、作り手の人たちもただ続いてるものを引き継いだっていう意識を取り払って、自分たちがその地域のものを結構担ってるっていう意識を持つ。自分たちの誇りとか、他の文化に比べて希少なものをやってるっていう意識があまり認識できてないっていうところがあると思うので、僕らが一緒に伴走しながら、こういう位置づけですよっていうのを一緒に考えていく。
そうしながら、シビックプライドや作り手自身が認知した自分たちの価値や状況をきちんと使う人たちに伝えて、それだけだとなかなかサービスにならないので、店舗だったりECだったり宿とかツーリズムとか、地域文化にアクセスできるサービスをいろいろ作っていくというのが僕らの役割です」。
中庭が気持ちいい。
うなぎの寝床のもう一つお店、旧丸林本家に移動します!
うなぎの寝床のある八女の福島地区は「伝統的建造物群保存地区」に指定され白壁の美しい街並みが残っています。歩くだけで楽しくなってくる。
なんだか変な集団が歩いている。
うなぎの寝床旧丸林本家に到着!
丸林家は元提灯屋さんだったお家を改装。ここは現代風もんぺなどの衣料を販売しています。
“KATA-T”は同じ素材、同じ型で違う編み方を比べるTシャツのシリーズ。現代風もんぺの“型”という考え方を踏襲。共通の型紙をベースに伝統柄から無地までさまざまな色柄を当て込み楽しむもんぺに対して、この“KATA-T”は形は同じだけど糸の種類や編み方を変えることで、着心地や素材感を感じることができます。
フーディーの“Think futu”(普通を考えよう)。「デザインの理由、フードの大きさとポケットの位置など“普通を疑う”ことを追求して作っています」と白水さん。
うなぎの寝床の服はどこにでも来て行けてどれも着やすい。すごく助かるし大好きです。
「ファッションみたいに“今年売れなかったから来年売らない”というものは作らないっていうのを決めています。アパレルって今年のシーズンでダメだったものは次の年は売らないという傾向がありますが、うちはもう来年に流行が終わるみたいなのは基本的に扱いません」。
もともと着物の上に着る羽織りを現代風のデザインにして、通常の生活遣いでも着ることができるように、羽織の入り口を広げるという考えのもと生まれました。
お着物の辻田さん曰く「クラフト感を保ちながらちょっと着物のエッセンスも入ってて、海外にはとてもいいと思う。着物の袖を折らないといけなくなるから、羽織はあまり着なかったけど、着物の袖も入るようになったら嬉しい」。
新商品のできる瞬間に立ち会ってしまったかもしれません。
欲しくなってきたやばい!財布の紐ゆるゆる〜。作り手と一緒の店舗見学は注意が必要!
うなぎの寝床が現代風もんぺを作りはじめたきっかけ
久留米絣の価値を再発見し、現代風もんぺで一躍全国に名を馳せたうなぎの寝床ですが、はじまりはもんぺそのものではなく型紙の方でした。
「初めてもんぺ博覧会を開催したときに、地元の八女農業高校の生徒さんたちが農作業のためにもんぺを仕立てるという取り組みがテレビで紹介されたんです。その時そのもんぺの型紙を5枚だけ限定で差し上げます、と紹介したんですけど、それを見た多くの方...300人くらいだったかな『うちのタンスにもたくさんの着物があるからもんぺに仕立てたい』とたくさんの問い合わせをいただいて、高校の先生だけでは追いつかなくなり、その後、僕の妻と妻の母が型紙の線を引くことになりました。僕も元の型紙を写真に撮ってイラストレーターでトレースしたりして、そのとき布を節約して無駄なハギレをできるだけ少なくなるようにデザインして、昔ながらのもんぺより細身のもんぺができたんです。だから、誤解を与えないように昔のとはちょっと違うことが伝わるように型紙に“現代風”って大きく書いてあります。
その現代風もんぺと型紙の展示と一緒に作り方の説明をしていると『私も細身のもんぺが欲しい』と要望が増え始め、それから現代風もんぺを商品化しました。最初は織元の内職さんにお願いして作ってもらってたんですけど、朝のテレビ番組などで取り上げられると、内職さんの手だけでは追いつかなくなって...結局『自分たちで作って』と言われてしまい、縫製所を探して自分たちで作るようになりました。事業計画とかを作らずに始まったんです。今では産地の2~3割ぐらい、うちが布を買っています。たぶん、うなぎの寝床が久留米絣を一番仕入れてる会社です。もんぺメーカー専業ではないんですけど(笑)。
布をいっぱい使ってたら端切れとかもすごいたくさん出るので、それを“半毛(はんもう)”っていってもう1回綿に戻したりとか、本屋やったり宿をやったり、いろんな事業をやってる感じです。行政や組合などとのプロジェクトも増えていて、今回のデザインキャンプだったり、最近は仏壇組合さんと仏壇について考えるイベントをやって、そこにお坊さんに来てもらって死とは何か、仏壇の存在意義は...みたいなこともやったり。いろいろ語りきれてないことがたくさんあると思うんですけど、地域文化を研究対象とし、現在の活用方法を探って商業機能をちゃんと担って、それを地域に還元していくみたいなことをしながら、このもんぺみたいに、考え行動して、それを仕組み化するっていうのを、久留米絣だけじゃなくて、いろんな分野でぐるぐるできればいいなと思ってやってます。基本的には僕らだけが何かやるっていうよりも、一緒に考えながら行動し続ける生態系を作ろうっていうのがミッションです」。
うなぎの寝床のもんぺが生まれたお話を聞いた後は、その商品化の際にいち早く協力を申し出てくれたという織元「下川織物(しもがわおりもの)」さんの工場見学へGO!
トップブランドも注目!久留米絣の魅力を世界に発信し続ける織元、下川織物の工場見学
下川織物さんにやってきました。軒先の竹竿に染められた糸が吊るされています。
「博多祇園山笠ってお祭りの法被に使われる糸なんです。こうやって見てみると“千代”って言う字に見えるでしょう?これが“代”の字です。長年やってるとこれがどこの地区の法被なのか、なんとなくわかるようにはなってきます。
ちょうどこちらのピンクのきれいな花が枝垂れ梅。これから10日間か2週間ほどが見頃なんです。ついでに言いましょう!そちらには松の木なんですね。だから...松と、糸の吊るされている竹竿と。枝垂れ梅で...そう松竹梅。今だけの激レアよ!」。
ご機嫌で迎えてくれたのは下川強臓(しもがわきょうぞう)さん。下川織物三代目の当主です。
下川織物の強臓さんと、白水さんはうなぎの寝床立ち上げ当初からのつきあい。もんぺを商品化する際に最初に協力を申し出てくれたのが下川織物さんだったそうです。世界のトップブランドとさまざまな取り組みのある、八女の久留米絣を代表する織元。早速見学させていただきます!
ガシャンガシャンと音がする♪半自動の織機
70~80年前の織機がまだ現役でガシャンガシャンと元気に動いています。糸から久留米絣になるまで最初から最後までで約2~3ヶ月かけでき上がることが多く、すごくざっくり言うと、デザインを考え、糸の図案を設計し、糸を染色して、反物を織って、着物に仕立てて、売る、とこのような工程があります。さらに糸を括ったり解いたり、糊付けしたり天日干しだったり、経糸と緯糸で工程が違っていたりと細分化すると30以上もの作業があり、この建物の中で行われているのは糸から生地に織り上げていく“機織り”と呼ばれる工程です。
織機は全て豊田自動織機製。これらは全て1950年代に豊田自動織機が作った織機です。ガシャンガシャン動いていて、打ち込みやシャトルなど部分的に自動化されています。しかし、糸をセットして放っておけば生地ができるわけではなく、柄の確認や一定時間ごとに部品を交換する必要があったりと、たえず目を光らせておかないといけません。
「絣の技法に従う場合、モーターの付いたこの動力織機でしか織ることができないんです。伊予絣、備後絣とともに昔は日本三大絣って言われていたかつての久留米絣はモーターの付いたこの織り機で生産を飛躍的に伸ばしました。しかし、三大絣の他の産地は途絶え、久留米絣だけはこの織機でまだそれを織る技術が残っています。同じ技法のものは他にもう存在しないという点では、希少性があって国内で唯一残ってる産地と言えるかも知れませんね。
ここは昔ながらの屋根がギザギザになってる建物です。地図記号の工場のマークってギザギザ屋根でしょ。ギザギザ屋根で天窓がついているのには理由があって、音が乱反射して上に抜けるようになってるから騒音を低減できる点と、上から光が入る天窓がちっちゃくても中が明るくなるっていうのもあります。天窓はだいたい北向きになっていて、理由は時間や季節に関係なく安定した光の中で作業できるようにっていうことですね。
画家さんのアトリエなどもだいたい北向きの天窓が多いそうで、同じ理由みたいです。直射日光でガンガン入れた中で、何かすごいクリエイティブなものを作っている人あまりいないでしょうし。朝と昼と夕方で光の方向は全然変わらない。季節によっても差し込む光の強さが違うし、やはり何かを生み出す作業というのは、自分の手元を明るくすることが多いようです。本当に見たいところだけ、そこに意識がいくようにっていう意味もあると思います」。
中に何人か職人さんがいます。女性は「柄合わせ」という作業でという柄がきちんとデザイン通りになっているかを確認しています。
「電源入れたら勝手に機械がずっと回るんじゃなくて、人がずっと操作や監視しないと機械は動いてくれないんですよね」。
糸が切れたり、突然機械が動きを止まってしまうことだってあります。経糸と緯糸の絡まりもあるし、糸がなくなったら機械が止まるので糸をつないで補充して、機械をまた動かし始めないといけません。そういった点で半自動ということなんですね。
一方、男性の担当は機械のメンテナンス。動力源は工場内のモーター1つで、何かが起こったとしても織機はいちいち止めていられません。修理や矯正は動力を止めることなく行います。
「一人6台~7台、機械の面倒を見ています。お子さんを保育園にお迎えに行く職人さんもいるのでもう少し面倒をみる機械が増える時間帯もあります。一番端っこのおばあちゃんは、奥の2台の柄物だけを使って織ってもらっています」。
ガシャンガシャンと何かの生き物の心臓の中にいるような“止まったら死んじゃう”といった、何か生命力を感じる場所です。
柄のアイデアはなくならないはず。音楽と同じだからね!
ショールームで、久留米絣の製造工程と柄についてのレクチャー。
「井上伝さんが考案してから久留米藩でも特産品だからどんどん作れ、ってことになって、今見たように機をいっぱい並べて、どんどん作るようになっていたんです。生地の中に微かにかすれたような部分が見えることから『かすり』って呼ばれるようになったとも言われています。
柄を入れるために糸を括り方などの技法を井上伝さんから教えてもらって、みんな農業しながら絣の反物を織るようになって久留米絣の産地になったと聞いています。井上伝さんは久留米絣の発明者というよりは、柄にする技法を確立して広めていった人。お伝さんはもっと複雑で緻密な柄を作るにはどうしたら良いかな、って考えたそうです。その同じ地域に住んでいたのが、「からくり儀右衛門」と呼ばれた発明王の田中久重さん、東芝の創業者の一人です。儀右衛門さんは久留米の人で、お伝さんの絣を量産するための知恵を貸して、さまざまな道具を作ってあげたそうなんです。括りの機械をどうすればよいかをお伝さんが儀右衛門さんに相談したそうなんですね。同時代の方同士でそんな繋がりがありました。
お伝さんが考えついて、儀右衛門さんともに技法をアップデートして久留米絣の土台を作った。時代ごとにそんな人たちがいて、地域のお百姓さんたちがたくさん作って、商人が久留米絣の反物を風呂敷に包んで行商していった。そういうところから産地が広がっていったと言われています。
下川織物が創業した昭和23年当時は、鶴亀や因幡の白兎がモチーフになった兎など伝統的な柄が主に着物に使われていました。着物が減る代わりに洋服や他の雑貨など使われるものにも久留米絣が使われ出して、伝統的な柄だけではなく幾何学的な模様や、柄ではなく風合いを見せたりと、デザインの流行も変わってきています。現在は着物や洋服に限らず、もっと新たな可能性求めていろんなものづくりに挑戦するようになってきています。音楽って音階は決まっててもいろんなのが生まれるじゃないですか?それと同じ感覚で久留米絣の柄やデザインも無限だと思っています。実際に下川織物でも毎月新作を企画していますよ」。
トップブランド、美術館、大学生、次々に生まれる海外とのつながり
さまざまなチャレンジの中で強臓さんが作ること以外に力を注いだのが情報発信。SNSでデザインやものづくりの様子を発信するうちに海外のブランドからも声がかかるようになりました。
「これはうなぎの寝床さんのもんぺの人気柄にもなっているフィンランドの方のデザインです。青森県立美術館で奈良美智さんという方がキュレーターで企画展された時の作品なんですが、東北はこけしの文化があるということで“こけしの妖精”がモチーフになっています。
日本とオランダの国交400年プロジェクトでは、特に九州には長崎に出島があってオランダとゆかりが深いということもあり、オランダの団体がやっていた“インディゴ・シェアリングブルー”というプロジェクトにも参加しました。オランダからは4人のデザイナーがここに来られて、3週間滞在していろんなものを作りました」。
そのイベントを皮切りに、スウェーデンやフランス、デザイナーだけではなく美術館からも声がかかるようになり、さまざまな国へ訪問したり交流する中で、これまで自分は受け身だったことに気づいたという強臓さん。その後は自分から久留米絣についてのセミナーを開催させてもらうよう各所に奔走。2020年にはパリでのセミナーが実現しました。その後もヨーロッパのトップレベルの美大芸大で次々にセミナー開き、さまざまなラグジュアリーブランドとのつながりも生まれました。
「海外の方とのつながりが生まれる中で、問屋さんとかそういうお取引先さんから言われるまでずっと待っとって、言われたものをただ作るだけとかっていうのは何かちょっとどうなのかな、っていうふうにいろいろ考えるようになりました。下川織物を継いだ後そっから先、ちょうど自分の未来予想図、自分の会社の目標をどう立てていくかっていうとこが大事であって、目標設定をするために曼荼羅シートなんかも書いて“唯一無二の職人”っていうのを自分の目標に掲げ、しっかりと計画的にやっていくようになりました。
セミナーでは話をするだけではなく学生さんやプロのデザイナー向けの賞を作り、優秀なデザインにはその柄の久留米絣の反物を本当に作って差し上げます。そんなことをしながら海外からのつながりを持ちつつ受注を増やしながら、若手職人の教育や設備などにも投資したいと考えています」。
現在では、日本人なら誰もが知るアニメ制作会社や有名な海外ブランドとのコラボレーションなど新たな展開も加わり、久留米絣に新たな息吹を吹き込むべく情熱と力を注いでいます。
Youtubeでも発信中!
世界中に1000人の弟子を持つ
強臓さんに会いにくるのは、海外のデザイナーや有名ブランドだけではありません。
久留米絣について学ぶため東京芸術大学で交換留学に来ていたドイツ人の女性は、できれば現場で職人のもとでいろいろ学びたいと下川織物を訪れ、6週間滞在し技法から久留米絣の文化などあらゆることをみっちり学びました。
そして、人の思いや夢を叶えることを通して久留米絣の素晴らしさを伝えたいという思いから、強臓さんは公募したデザインの生地を久留米絣職人がオーダーメイドで織るという“夢を叶えるプロジェクト”を自ら立ち上げ、2021年にはタキシードを製作。新婦自らがデザインしたそのタキシードを新郎が実際に着て結婚式を挙げる、という二人の夢を叶えました。
写真提供:下川織物
「新婦さんが福岡県出身、ご夫婦お二人とも芸大卒でテキスタイルとか、ものづくりがとても好きっていうことで。こんなコロナの時期で結婚式を盛大にあげることもできないし。身内だけでの結婚式にはなるけど、何か記念に残るようなことをしたいっていうことをおっしゃってて、奥さんが自分したデザインを持ち込まれて、これで久留米絣作ってもらえませんかという依頼だったので、そのお手伝いをしました。
写真提供:下川織物
さまざまな課題がありました。例えば一度機械を動かすと100m以上の反物ができるので、服を仕立てた後の余った生地はどうする?などコストや最低ロットの問題。でも、これから生まれてくる子供のために何か作ってあげられるし、将来の着物でお仕立てもできる。自分たちで全部使い切れなくても孫や子に財産として形見分けもできるしですね。そう考えたら、家建てたり車買うのも遥かにリーズナブルで、長く使い続けるものなんじゃないかなと思って。もっといろんな人にこの久留米絣の図案をいろんな人に書いてもらっていろんなものに展開していくことで久留米絣の価値を広めたり、いろんな可能性を広げることができるんじゃないかな。そんな活動を今後もしていきたいと思ってます」。
このようにたくさんの人との出会いや交流を通して、強臓さんは世界中に1000人の弟子を持つことを計画中。
「よくよく考えると、久留米絣を考案した井上伝さんという方は、いろんな方に久留米絣の技法製法を伝えて、そうやって久留米絣を広められたんですね。この辺はみなさんがもともと兼業農家で、綿花を栽培して藍で染めて、自分たちの着物にしてたってところに絣という柄や技などの魅力を加えて広がっていった。そういうことに思いを馳せたときにお伝さんがやってきたのと同じことを自分たちもすればいいんじゃないかなっていう...広い意味で言うと僕たちもお伝さんの弟子っていうことになるでしょうから、それが今の時代に受け継がれています。地域だけではなくグローバルで海外の人も広く含めて、久留米絣を学びたい人には、オープンに伝えていった方がいいんじゃないかな、って思います。
と...そんな風に世界中に弟子を1000人作るぞみたいなことを口に出したりSNSで発信していたら、1週間後にロンドンから弟子にしてくださいって実際に女の子がやって来てしまうこともありました(笑)」。
コロナ禍になり、海外出張はもちろん2021年で福岡県外に出たのはそれも隣県の長崎に日帰りで一度きり、という強臓さん。しかし2021年、下川織物の工場見学に訪れた480組1,000人以上の人と出会い、話をしたそうです。世界に1,000人の弟子計画は決して絵空事ではなく、実現の日は予想よりだいぶ早くやってきそうです。
「工場見学っていうのは、下川織物にとってはオンラインなど形変えていろんな環境の変化を乗り越えられるものだったんです。だから問屋さんの下請けの仕事だけじゃなくて、工場見学というオープンな取り組みをしたことが、うちが生き残れた一つの要因ではあるのかなと思います」
その後、久留米絣の純度と多様性のバランス、職人の後継者問題、流通や売り方、価格にまで話が及び予定の時間を1時間以上オーバーしてしまった下川織物さんの見学。終わった頃にはもう工場も終業していましたが、まだガシャンガシャンという音が耳の奥で響いている気がしたのは、きっと強臓さんから溢れ出る元気とエネルギーのせいだと思います!
強臓さん、今日は有難うございました。
キャンプ第1日目はいろんな人からパワーをもらって終了。
宿はOrige(おりげと読みます)という広川町が立ち上げ、ニュー・ヒロカワ合同会社が運営するゲストハウス兼移住促進センターです。
Origeとは「俺んち」「我が家」という意味合いの筑後の方言(おらがいえ、ってことかな?)。宿泊施設がないので民家を広川町が借り上げてリフォーム。キッチンやリビング完備で、一人部屋からダブル、和室の8畳までの居住スペースのほか、隣の倉庫兼イベントエリアも備えています。山に囲まれた静かなロケーションでとても星がきれいのもセールスポイント。でもイベントがある時にはとても賑やかになります。
写真提供:Orige
写真提供:Orige
こちらがゲストハウス管理人の山本誠(やまもとまこと)さん。横浜から家族で移住してきました。
「隣の畑を借りて、小規模ですが藍や綿も育てています。糸づくりをしたり蒅玉を乾燥させて水と混ぜて、小さなバケツの藍甕も作りました。灰かけもやって、薬剤を買ってph調整をしてちゃんと糖分の調整もやります。実験的ですが、土地から全て生み出して土地に還元する、みたいなここで完結することを去年からやっています」。
写真提供:Orige
今日の夕食は地元の山菜料理屋さんによる広川町の郷土料理。山の幸がふんだんに味わえます。刺身こんにゃくもこの地域の名産です。
居心地の良さはまさに我が家。
「だご汁」は団子汁のことです。中に入っている団子は球状ではなく、団子の生地を引っ張って平たく薄くしたものです。
みんな今日初めて会った人ばかりなのに、おいしい料理のおかげでお箸は進むトークも弾む、今の仕事や参加の理由や、今住んでいるところ、出身地の話で盛り上がりました。こういうところも産地デザインキャンプの楽しさですね。
藍色の変化を体感!染めの匠、藍染絣工房で藍染めの色の魅力について学ぶ
産地デザインキャンプの2日目。やってきたのは広川町の「藍染絣工房(あいぞめかすりこうぼう)」。染め場の見学と藍染めのアートピース制作を体験します。
代表の山村健(やまむら たけし)さん。健さんは、薄くて優しい緑青の「甕のぞき」色から、緑かかったねぎの葉のような「浅葱(あさぎ)色」、紺色、そして紺よりもさらに濃い黒色に見えるほど暗い藍色「勝色(かちいろ)」まで、48種類あると言われる藍色を染め分けることができるという藍染めの匠。今日の体験を通して、藍染めの色について学びたいと思います。
藍染めの色を追い求めることになったきっかけ
健さんは、1891年創業の藍染絣工房の四代目。戦前までこちらの工房でもやっていた藍染めは戦争のため一旦途切れてしまい、健さんが家業を継いだ頃には染めを外部に委託していました。
自身でもやろうとしたきっかけは?
「外の職人さんに藍染めを頼むんですけど、当時藍色といえば1色だけだったんですよね。自分も手伝うことがあるんですけど、別の藍色を出してくれないかと外の職人さんに頼むうちに、いろいろあってせからしくなってね(笑)。自分でやれ、って言われたので一人でやりはじめました。それが約40年前です。
藍染めは先々代のお爺さんの頃にやってたけど、資料も記録も残っていないもんで自分で勝手にやりたい放題やっていました。師匠がいれば、こげんせよ、あげんせよと制約があるけど、うちはそれがなくって...基本だけは習いました。こげんすると発酵するのだなとか、あとは自分でやってみようと。人間国宝の松枝玉記(まつえだたまき)さんという方が薄い藍から濃い藍までいろいろやられてたので、初めてそれを見た時に『こういうの良かねー』と思って、俺もこんな風に藍絣を出してみたい、と。それから試行錯誤しながら、現代に至っています」。
色の濃淡を表現するために括って染めて解くを繰り返す
久留米絣は、糸の状態のまま部分的に別の糸で縛って(括り)、その糸を染液につけ、染まらない部分で柄を出していく技術で、生地を織り上げる前に先に糸を染めるので、先染めと呼ばれます。
例えば十字の柄を出す場合には、経糸と緯糸それぞれ染まらない箇所を決めた図案にそって糸を括り、その後染液につけ仕上がった糸を織って生地になってはじめて柄が出ます。経糸緯糸の括る部分それぞれの場所が合わないといけないし、そのデザイン通りに織り上がるように設計する必要があります。
健さんは、濃い紺と白だけを染める時には機械、グラデーションや微妙な色加減が必要な場合にはさまざまな塩梅が要るので手染め、と使い分けています。薄い方が難しいってことですね。
「微妙な色加減が必要な時には括り方も染めの回数も何種類も作るようにしてるんです、全部1回だけ回して括ったり、二重に括る、三重に括ってみる。で、染めて解いてみて、次に残したい部分を染めて解いて、最後の最後に解くのは白の部分…」。
何度染めればこの色になるっていうのが決まっていれば、計画できて効率的になるし、ひょっとすると機械を使えるようになるかもしれない、しかしそう簡単にはいきません。括り糸の締め方の強さ、染める時の温度や湿度といった染め場の環境、さらに藍には微生物がいてこそ染着するのでその生き物のご機嫌など、さまざまな要因に左右されるので、思ったような色を出そうと思うと試行錯誤を繰り返すほかありません。気の遠くなるような繰り返しの作業。やって試して直してまたやる。その難しさこそが藍染めの面白さであり醍醐味です。
「同じように見えるデザインでも、使う糸の太さによっては設計図の絵の描き方が微妙に変えるんです。糸が細ければ縦長に書くし、大きな糸は隙間が出やすく短めに描かないとこの形にはならない。だから糸の太さによって計算が必要になります」と健さん。
糸の種類や太さ、染料、括り方...染めを決定する一番の要因はなんですか?
「藍の染まり具合に影響するのは何と言っても染料です。ちゃんと元気に毎日、育ててあるかどうかと、もともとの色素の問題もあります。色は目視で合わせていくしか他に方法はありません」。
どこまでも試行錯誤だ!
久留米絣のアイデンティティは柄と風合い
糸染めだけではなく、健さん自ら織機を使ってさまざまな作品を制作しています。
健さんお気に入りの柄。グラデーションと幾何学模様の組み合わせで、伝統的な久留米絣ではあまり見られないデザインです。
機織で織った生地の特徴はなんといっても風合いです。高速でシャトルが往復するため針金のようにピンピンに張った最新型の自動織機に比べると、この織機の糸の張り具合は緩め。糸にストレスがかからず織っている最中も切れにくく、伸縮しやすい綿の糸に適していて優しい風合いの仕上がりになります。この風合いも柄とともに久留米絣のアイデンティティです。
昔の絣の場合は黒に近い濃紺が多いんです。その理由は色を薄くしてしまうと一回一回色が違うから。濃紺であれば誤差が少ないから糸のロスが少なくなる。昔の人たちは本当に頭がいいです。
この織機は100年近く前のものです。鶴の恩返しの昔話に出てくるような機織りの道具と似ていますが、経糸の上下運動とシャトルを往復させる左右の動きが織り機の車輪によって連動しているため、織るスピードがわりと速くて効率的。しかし、図案どうりに柄が出ているか、シャトルが折り返すミミにずれていないかなど絶えずチェックしないといけません。その点は下川織物さんのところの豊田自動織機製の織機と似ています。
「機械も地域ごとの特色があるんです。この織機は広川・八女地区のもので、特別な名前はないのですけど、柄がある絣と無地を織りたい時に、わざわざ糸をセットし直さずに1台で切り替えることができるというのが特徴なんです。そうすると糸も有効活用できて、効率的でしょ。
シャトルのスピードも天気や湿気によって変わりますから、朝早かったり雨の日はどうしてもブレーキがかかりやすいです。そんな時には織機についている重りでスピードを調節することができるようになっています。
機織りされる方は認知症になりにくいです。こうやって手足も使わないといけないし、ずっと柄を合わせて頭も使わないといけないでしょ。だから意外と結構年配の方まで元気でやっておられますよ」。
気持ちいい糸干し場を見学
続いて、染めた糸を干す“糸干し場”を見学させてもらいます。
5分ほど歩く。
運動場みたいに見えるこの気持ちいい広場が糸干し場。
おおよそ140mにもなる染め上げた糸をここに吊るして干します。
ここはもともとみかん畑の斜面で、干し場にするために重機を持ち込んで整地しました。山の影になりにくいようにという理由で運動場ほどの広さになっています。
「朝から夜までの日のさし方が変わって風が東西に流れるので、同じように糸も東西方向に干します。糸と並行な流れにしないと横風を受けて糸が乱れてしまうんですね。この地域は他の干し場も東西方向にされているところが多くて、最初に干し場をはじめた人がそこまで考えていたのでしょうね」。
原付バイクのホイールを活用。ここに糸を通して往復させるのだそうです。
干し場のそばに藍が植えてあった跡があります。
「ここで藍染め用の蒅(すくも)を作るんですけど、蒅はもともと藍の葉で、漢字は草冠に染めると書きます。それで蒅。刈り取った藍は染料分が含まれている葉っぱと茎の部分を選り分けて蒅を作ります。藍は収穫したら土に染料分がなくなるから、全部場所を変え植え替えないといけないんです。その時には染料をとった後に搾りかすをまた畑に戻して(堆肥にして)使います。天然のものなので循環させることができます」。
いよいよ藍染め体験へ
お待ちかねの藍染め体験!藍甕で布の生地を染めていきます。
色の濃さの違いを楽しんだり、やり方によってはグラデーションやツートンなど簡単な柄を染めることもできます。
染め場へ。
染め場の中には大きな甕がいくつも並んでいます。何かが焦げたような匂いがして、ほんの少し暖かい。
「煙いと思いますが、藍を発酵させるために火を炊いています。あまり低いと発酵しないので温度は20度くらい。一段高くなっているところの真ん中が空洞になっていて、中で火を炊いているんです。蝋を搾った後のハゼの搾りかすを燃料にしています。
今回は染液の原料に徳島の藍を使います。昔は藍玉といって形で丸くまとめてあったけど、溶けやすくするために今はこんな感じです。藍は4~5月頃にタネを巻いて7~8月に育つ。そして、刈り取った後に乾燥させて水を繰り返しかけて発酵させる。言葉は悪いけど腐らすんです。それを何度も繰り返すことによって、こういう形になります。例年10月くらいから水をかけ、できあがりまでは100~120日程度で、この時期(2月下旬頃)にはだいたいできあがっています。甕の深さは1m10~20cmほどです。この液の中がアルカリ液になっていて、藍を入れて発酵させることを“藍を建てる”といいます」。
割烹着風エプロンに着替えていよいよ挑戦。
私は空色よ、グラデーションにしようかな、など各自狙いの色を決めます。染まった感が実感できるので濃い色は初心者向け。しかし、自分の狙った通りの色に仕上がるかどうか、あえて薄い色に挑戦するのも楽しい。
液の中は暖かくて、ずっと手をつけていたくなる温度。染液に30秒ほどつけて布を持ち上げ空気に触れさせる、を繰り返します。
染液は甕ごとに発酵の進み具合が違います。
「一度建てた藍は使っても使わなくても染料分がだんだん減っていきます。藍に元気を出してもらうため1日1回甕の中をかき混ぜて攪拌する必要があって、染料分は下の方に沈殿するので攪拌し上液で染めます。発酵しすぎなどで調子が悪くなると布が浮いてきます。他には色とか泡の立ち具合、かき混ぜる音で確かめて...ちょっとおかしいなと思った時には、最終的に自分の舌でも確かめる。アルカリ性なので、味はちょっとビリッとする感じ。調子いい時にはピリッときた後にちょっとワンテンポ遅れて、フワッと糖分を感じます。発酵するためには、糖分が必要だから。
発酵することによってpHが下がるので染めた後はその分またアルカリ分を足します。運動場の白線のあれ(石灰)です。漆喰とかにも使うもので、甕に入れて微調整しながら不足分を補充していく。発酵する部分と発酵しない部分のムラがあるといけないので、pHと糖分とのバランスを見ながら調整します。
藍の調子が悪い時は直してやらんと...あとで立ち直れないようになるので。ちょっと舐めてから、疲れているなと思ったら休ませないといけない、といった感じで判断します。一日ではなかなか元気にならないです。計算はできません...。人間と同じように、若い人と年寄りの人は量や配合を同じにすれば良いというわけにはいかないですから、使いながら調子を見てやります。一番向こうの甕はベテランの藍で染色は強くなく薄く染まり、手前が若くて元気で強く染まる。一つの強い染液の甕で染めてしまうのではなく、いくつかの甕の染液を組み合わせた方が色に深みが出ます」。
搾りジワが出るので、同じところばかりではなく場所を変えて搾っていくのがポイント。
わざと泡につけて色ムラを楽しむテクニックもあります。
染液につけた生地が柿渋のような渋い茶色になっているのはアクが染み込んでいる証拠。つけることを繰り返すことによって徐々に藍に近づいていきます。
搾って広げて搾って広げて。
空気に晒すのは酸化させるためです。染液につけて空気に触れさせるという作業は(超かいつまんで書くと)アルカリ性の液につけることで藍の中の色素が布に付着し、酸素に触れさせることで繊維中に色素が定着する、という仕組みです。
若くて元気のある二つ目の甕へ移動。
「最初の甕は、お化粧で言うとお肌の調子を整えるスキンケアで、次の甕が日焼け止めみたいな感じですね」と女性の感想。
なるほどですね!わかりやすい。色を重ねていくという意味ではそうなのかもしれない。
テッテレ~、染まったよ♩
一度グリーンに色が変わる。わかめを茹でた瞬間みたい。その後だんだん藍に近づいていきます。色を見極めるため、自然光に透かして色をチェックします。
液を変えることで色に深みが出る
糸染は筋トレみたいなもの。糸を染めるときにはくぼみに何度も叩きつけることで、糸に藍の色が染み込んでいます。布の後染めは今日みたいに初心者でも気軽に参加できて比較的簡単ですが、糸の先染めは本当に大変なのだとか。糸を全部搾り上げて、叩いて叩いてまた液につけて、搾り上げてまた叩いてを何度も繰り返します。
「やっていくうちに仕上がりの色も徐々に想像がつくようになりますよ。濃紺は回数だけガンガン重ねていけばいいですけど、本当は中間のブルーを出すのが一番難しいんです。
微妙な色を出したい時には、液を変えて違う甕の液を加えて染めていきます。混ぜて染めると糸の上にいくつもの色の階層ができて深みのようなものが出るんです。濃い染液で一度にやると一見濃く染まったように見えますが、実は深さがない。糸の先染の時にも同じ藍の色でも経糸と緯糸とで濃度をわざと変えて深みを出すことがあります。同じ色で縦も横も糸を染める方が効率的ですけど、重ねて染めると10年後に見ても美しい深みになります。美しさにたどり着くためには遠回りしかありません。
先染めの場合、厳密に言うと一本一本の糸の色が違うはず、たぶん全部違うはずなんです。それで織った布は無地だとしても深みが違う。だからそういった意味で、後染めと先染めの場合は深みが全然違います。一生眺めていても今日と明日の見え方が違う、というか…回数が多い方が深みが違う。藍染めの最初はみんな一緒の色に見えて大して差はわからないんですが、わかってくるほど違いが見えてくるようになります。
私も藍染め自体がわからない時は、化学染料だろうか藍染めであろうが藍と一緒やねって感じやったけど、今になると、そういう言葉はでてこない。かつてはよう似てるね、という感想しかなかったですけど、やればやるほど全然違うってなります。そこらへんは目を肥やしていくしか...その差は少しではあるけどすごい大きいように感じる」。
自分で納得するまで甕と向き合い、染め体験は終了。この後、乾燥のため布にアイロンを当ててもらって、ボードに貼り付けて完成させます。
アイロンを待っている間に話を聞きます。
デザインはどうやって考えるんですか?
「こういうのがあっても面白いかもしれないなというデザインで、手間暇のことはあまり考えてないです。いろんなグラデーションとか手括りとか。楽しんでやって、どんな仕上がりができるのかな、なんてある程度想像しながら作るのが楽しいです。
今は動きのあるデザインとか立体的に見えるとか、そういうのを中心に取り組んでいます。デザイン的には基本的には昔の柄です。それをまともに見るのか、少しはすに見るのか。上から見るのか下から見るのかとか、そういう受け取り方で考えます。さっき自分が織っていたあの柄も藍と白で同じ柄だけど、グラデーションを使うことで全然印象が変わる。目に入ってくる 色の受け止め方の部分が、全然違うでしょ」。
ほんとだ。同じ図案でも色を工夫することによって別のデザインになる。
生きてるうちにあの柄を仕上げたい
健さんが目指すのはこの幾何学模様、題して“YAMAMURA BLUE”です。
「この柄を絣で作れればいいかな、と思います。面白いと思うけどまだ頭の中で実現方法が思い浮かんでないんです。相当考えて作らないといけない。緯糸だけで作ろうと思えばできるかもしれないけど、ブルーが沈んでしまっての藍の良さが出てこないから、タテヨコの糸でやるとなると、うーん...って悩むんです。死ぬ前に一回でも作ってみたいな、と思っています」。
藍色の匠のゴールはまだまだ先みたい。健さんの藍への挑戦はまだまだ続きます!
健さん、有難うございました。藍の深みにハマってしまいそう。
後編に続きます。
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(text, photo:西村)
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