日本近代化の島、炭鉱の島、去っていった島 軍艦島産業遺構編
前の記事では、造船を中心に長崎の海が日本の産業の近代化の原動力となったことを書きましたが、今回はいよいよ軍艦島(端島)に上陸したところから。
廃墟と瓦礫に囲まれた場所。空は突き抜けるように晴れ渡っているのですが、体験したことのない空気に圧倒されます。
軍艦島の中では3つのエリアを順番に見学。ガイドさんが建物や当時の生活、歴史について説明してくれます。
石炭から近代化を支えた軍艦島
軍艦島は通称で正式な名前は「端島(はしま)」。長崎市(旧高島町)にある島です。
江戸時代の元禄期のころに石炭が発見され、幕末に佐賀鍋島藩とトーマス・グラバーが共同で出資で採掘をスタート。明治に入り後藤象二郎が買い上げ操業を開始し、同じ土佐藩出身の岩崎弥太郎の三菱財閥に譲り、本格的に採掘が開始されました。日本最古の大手資本による炭鉱といわれています。
明治時代から昭和にかけては海底炭鉱によって栄え、良質な製鉄用の原料炭を供給してきました。写真は主力であった第二竪坑坑口桟橋の昔の姿です。
現在は、第二竪坑を含め、鉱山施設はほとんどが崩壊。かろうじて第二竪坑へ行くために設けられた桟橋への階段部分が残っています。第二竪坑の遺構は今ではこれだけで、竪坑に入ることは残念ながらできません。
いのちの階段
この第二竪坑坑口桟橋から坑道に入っていきます。炭鉱夫のみなさんは仕事の現場に行くために、交代で1千メートルの長さの竪坑に入る必要がありました。秒速8mで地下の坑道へ。とても怖くて失神することもあったんだそうです。
海底の坑道は他にも危険だらけ。昔はメタンガスによる爆発もしょっちゅうのことで、粉塵によるじん肺患者もたくさんいたのだそうです。この階段を上るときには仕事のためとはいえ、緊張の連続だったと思います。坑道の中では火気厳禁なので、タバコは絶対にダメ、マッチやライターを持っていないか厳しくチェックされました。
仕事が終わると顔も体も真っ黒な炭鉱夫が階段を登ってきてまずすることはお風呂!
真水は外から運ばれてくるので貴重品。お風呂は海水風呂でした。入るとすぐに真っ黒になってしまうのでイカスミ風呂と呼ばれていたんだそうです。
この階段が「いのちの階段」と呼ばれていた理由が心にしみます。
ごあんぜんに!
「グーッ」のポーズでも「世の中ゼニやで!」でもありません。
当時の島のみんなのあいさつは「こんにちは」ではなく指で輪っかをつくって「ご安全に!」
炭鉱は危険の多い仕事だったので、日頃のあいさつから安全を願わなければなりませんでした。命がけの仕事だったことがわかります。
四角い枠がドミノのように立ち並んでいます。実はこの上に炭を運ぶためのベルトコンベアーが乗っていました。精製された石炭はこの上を移動し、貯炭場に蓄えられ、運搬船に積み込まれました。今はその支柱だけが残っています。
「軍艦島」の通称が使われ始めたのは大正時代くらいから。採掘技術の発達とともに島のまわりを6回も埋め立てて護岸堤防を拡張。島は塀がぐるりと取り囲みにまれ高層アパートが立ち並ぶ姿が、日本海軍の戦艦「土佐」に似ているので「軍艦島」と呼ばれました。
建物は上に伸びていく
軍艦島の大きさは幅160m、長さ480m。半分は鉱場なので居住地がとても狭いためか、建物は上に上にと伸びていきます。1916年(大正5年)に日本初の鉄筋コンクリート造りの高層集合住宅である30号棟が建築されて以来、次々と高層アパートが建設されました。東京ドームのグラウンドおよそ5個分と島としては小さいですが、かつては5,200人以上の人が住み、東京の9倍以上の人口密度でした。
現在のアパートの壁面。窓枠がほとんど取れていて危険に見えますが、当時はたくさんの家族がこの中で生活していました。
昭和32年対岸の野母崎町より海底水道が敷設され、生活が便利になりました。山の上の建物が貯水タンクです。
当時は空中廊下でつながっていて、地上にわざわざ降りなくてもとなりの建物に移動することができました。
緑がとても大切な軍艦島
軍艦島には天然の緑がなく貴重だったので、屋上緑化!
今でも都市のビルには屋上緑化はありますね。
映画館や病院など生活に必要なものが揃っている炭鉱都市
当時はさぞ、生活が不便だっただろうな、と想像していましたが、まったく逆。都会生活者もうらやましがるような当時の最先端の生活を送っていました。当時のエンターテイメントといえば三種の神器のひとつ、テレビ!
住宅の屋上には2千世帯分のテレビのアンテナがそれこそ林のように立っていました。
軍艦島ではお金を使いたくても使えない
閉山前の昭和47年のお給料は約20万円、当時の新卒のお給料が5~6万円の時代だったので、軍艦島の住人たちはみんな高給取り。しかも、住居費はすべて会社負担。お金を使いたくても使う場所が少ないので貯まっていく一方でした。
昔の端島小中学校の様子。たくさんの子どもたちが校庭にいます。200名収容の幼稚園もありました。
プールも完備!幼児用プールと25mプールがあり、当初は海水が使用されていましたが、閉山の1~2年くらい前から水道水になりました。
でも海がシケると大変だ!
軍艦島にはもちろんお店もありましたが、そのお店も品物はみんな行商の船から手に入れます。そして、台風などで海が荒れると品物が入ってこないのでほぼ缶詰。
真水、品物、空間などやはり離れた島での生活ならではの不便なことがあります。
近未来の島と呼ばれました
学校や病院のほか共同販売所、映画館や料理屋、娯楽場など最先端の技術と都市機能を持つ炭鉱都市として軍艦島は栄えました。夜でも明かりが輝いている姿はまさに海の不夜城と呼ぶにふさわしい姿。
軍艦島には牢屋もありましたが、たまに使うとしても、ハメを外した酔っ払いくらい。みんな同じ職場の人やつながりがあるので凶悪犯はいなくて、家族的な島でした。今でも3年に1回、住民のみなさんの同窓会が開かれています。
40年前くらいに閉山、無人島に
しかし、エネルギー革命によって石炭から石油へと需要が移り、出炭量と人口が徐々に減少しはじめます。軍艦島には炭坑以外の産業がなかったこともあり、1974年(昭和49年)閉山。それにともなって全島民が島を離れてからは、無人島になっています。
この島の中で一番高いところにある幹部の社宅。
上から見られる心配がないのでこの屋上が一番のデートスポット♡
つい40年前にここで元気にみんなが生活していたとは思えないほど、静かな空間。
炭鉱の島として栄えていた時代の話、当時の生活の様子を聞いていると、人間の営みの輝きとはかなさが胸にしみこんできます。
世界遺産になるぞ!オー。
現在、軍艦島は「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、ユネスコの世界遺産への登録運動が行われています。2009年(平成21年)1月に世界遺産暫定リストに記載されました。
国際記念物遺跡会議(イコモス)の文化財の調査や保存の専門家による調査も2014年の10月に終了。
イコモスは調査を踏まえ2015年の5月に評価結果をユネスコに勧告し、夏にはドイツのボンで開かれるユネスコの世界遺産委員会で、世界文化遺産に登録するかどうかが審議されることになっています。
軍艦島の歌♫
帰りの船の中ではガイドの峰さんの歌「軍艦島の歌」が披露されました。
峰さんの作曲したオリジナルソング。
とってもいい歌なのでぜひ聴いてください。でも潮風を感じながらの船の中ライブが一番です!
長崎の海から軍艦島まで日本の近代化の成り立ちを見ることができた今回の見学。
世界遺産になったら、また来たいと思います。
さるく号のスタッフのみなさん、
今日はとっても貴重な体験を本当に有難うございました!
世界遺産になったらまた忙しくなると思いますが、日本の近代化の姿をみんなに伝えていて欲しいと思います。
【詳細情報】
軍艦島ツアー(株式会社シーマン商会)
電話番号:095-818-1105
予約受付時間:8:00~20:00
住所:長崎県長崎市旭町27番26号
アクセス・乗り場: http://www.gunkanjima-tour.jp/tour/access.html
URL: http://www.gunkanjima-tour.jp/
(text:西村、photo:市岡 ※一部の写真はシーマン商会さんから使用させていただいています)
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