虎竹の里から世界へ!自分たちの思いをまっすぐ伝えるぜよ!竹虎(山岸竹材店)
竹虎さんの工場があるのは、高知県須崎市安和。太平洋に面していてちょうど高知県の真ん中あたりにあります。町の大半が山林で須崎湾や浦ノ内湾など、海岸線が入り組んでいて深い入り江になっています。甲子園で有名な明徳義塾高校やカワウソでも有名です。
竹虎さんは竹の専門メーカー、創業は1894年(明治27年)。全国でもこちら安和の地でのみ採ることができる虎斑竹を使った製品を数多く作っています。
虎斑竹(とらふだけ)?
虎斑竹は名前の通り、表面に虎の模様のような柄が入っている竹で、植物学的にはハチク(淡竹)の仲間。全国でもここ安和の竹林の中にしかありません。近代植物分類学の権威で「日本の植物学の父」といわれる牧野富太郎博士が「虎斑竹」という名前を命名。高知市の牧野植物園をはじめ全国で虎斑竹の移植が試みられたのですが、虎のまだら模様は綺麗に再現できていません。この安和の竹林でだけ生まれる虎斑竹、イギリスのBBC放送も取材に来て「ミラクルバンブー」とビックリ!だったそうです。
虎斑竹のまだら模様の原因は、幹に付着した寄生菌のせいという学説もあるそうですが、まだコレ!という理由ははっきりしていません。ここにしか育たぬ虎斑竹、ミラクルでミステリアスなバンブー!!
工場から見える虎竹の伐採地。ちょうどこの写真だと電柱に挟まれたゾーンのVになっている谷間のところです。
ミラクルバンブーを見に行くぜよ!
「見るのが早いぜよ!」ということで、四代目に連れて行ってもらいます。
さらに分け入る分け入る。虎斑竹は固まって生育するのではなく普通の竹と混じっているので、見つける必要があります。
だいたい10分くらい登り進み、そろそろ腰が痛いなと弱音を吐こうかなと思っていたところ…
真ん中の2本の竹、とくに右側の竹の柄がハッキリしていてわかりやすい虎斑竹で、両端の普通の竹と比べて見てみるとよくわかります。
山出しの風景。だいたい竹を伐採する時期は晩秋から1月末くらいが中心。
親竹を残しつつ間引きもしながら1本ずつ、職人さんが目で見て色づきのよい虎竹を伐ります。
すぐ成長してしまう竹は、パッと見ぜんぶ同級生に見えますが、節の太さでわかることもあります。この竹でだいたい3年くらい。竹は生えてしまうとその太さ自体は変わることはなく、そのままの太さで育っていきます。
恐るべき竹の生命力
「雨後の筍」という言葉があるように、竹の生命力はハンパないです。
竹はとても成長力が早く、ピーク時には1日で120センチ以上成長することもあります。
このタケノコも1週間くらいのもの。旅人が竹林で寝ていたら高い所に吊るされてしまったエピソードや、竹林の近くにある家で朝起きたらタケノコが生えて家の床を突き抜けてしまったという被害の報告など、竹の生命力の強さを示す話もたくさんありますね。
この地面(にいてる特殊な細菌か?)が虎斑竹を育てています。この安和の竹は間引いたり、下草をとるだけで、どんどん生えてきます。
手入れのタイミングも年に一度くらいですが、適度密度が保たれ、枯れた竹もなく綺麗に整えられているので、気持ち良く光も差し込み、風が気持ちいい明るい竹林です。
生命力と細工のしやすさから、竹は扱いやすい素材。家庭用品はもちろん、茶器、花道、庭園、建築など昔はあらゆる分野で竹が活躍していました。
タケノコは食べないぜよ
安和の竹をなりわいにしている人たちはタケノコを食べません。理由はもちろん、竹は食べる方ではなく、売るための飯のタネだから。
天然記念物第1号は竹の保護が目的
幕府の直轄地だった岡山県真庭郡の虎竹は、竹の茎の部分の美しさから時のお代官が、今でいう条例を設けて保護されていたと伝えられています。しかし明治になると盗伐され、絶滅状態になり、明治時代の終わりごろ、植物学者たちが保護のために建白書を、政府へ提出しました。
これをきっかけに天然記念物保存法が生まれ、虎竹はその最初の指定を受けることになりました。
安和の虎斑竹は岡山県の竹とは種類が違いましたが、一般には広く知られることはなく、保護条例の対象になりませんでした。
そのわけは地理と藩の鎖国の命令。なかなか人が行き交うことのない場所なので、それが幸いし守られてきたとも言えます。
国道沿いの看板。今は道が整備されていますが、昔はお遍路さんのゆき倒れも多かったんだそうです。それくらい険しかったってことです。
みんなで守る竹林
この集落の人たちはだいたい顔見知りなので、誰が竹林に入っていったかはだいたいわかります。山の持ち主、山の職人さん、細工の職人さんなど、地域のみんなに大切に守られています。
職人さんも代々続いているお家ばかりだそうです。
安和の竹林はさらに奥に1キロほど続いていくのだそうです。険しい道を登ったり降りたりやってられないので、山にいったん入ると一日戻ることはありません。一日体験でやるのは楽しいかもしれないけど、これは大変!代々の家業、誇りを持たないとできない、と感じました。
山出しのためのマシン(竹を伐採してこの場所に運び出す)
これがない時代には人が担いで、車で運び出せる場所まで下ろしていました。
こうして竹が伐採され、製品へとなっていきます。
竹とその職人さんに脱帽です。ありがとうございます。
竹林を見せてもらった後は工場見学へ!
虎斑竹は模様の具合で価値が変わってきます。山出しされた竹たちは太さや品質の状態、使われる目的によって選別され保管されます。
製品に工程はとても大きく分けると3つ。
油抜き、矯め直し、加工です。
竹にはけっこう油がのっている
竹には油がたくさん含まれています。この油を取り除く作業が「油抜き」。
表面の汚れ落とし、ツヤ出しなど見た目のために加えて、余計な脂分を取り除くことで耐久性もアップします。
炎の温度は約700度。その竹の持つ個性はもちろん乾燥具合や太さによって、炎に入れるタイミングや炙る時間などを調節しながら、作業を行います。炙った後の竹の切り口からは油がジュワーっと表面や切り口から油分が噴き出してきます。油抜き作業が始まると竹の持つ甘い香りがするんだそうですよ。
「油抜きの上手さはウエスを見ればわかる」
素早くふく。
ウエスで素早く竹の表面を拭き、汚れを取ったりツヤを出します。油を十分に含まれたウエスはカッチカチやで。
竹虎ではこのウエスの使い方をまず教わるのだそうです。汚れた部分でぬぐってしまうと、竹に汚れが残ったまま綺麗に拭き上げることができないので、油抜きの上手さはウエスを見ればわかるのだそうです。職人さんの腕の見せどころ!
竹をまっすぐにする「矯め直し」
一見、すべてすくすくとまっすぐに見える竹ですが、よく見ると反ってたりで曲がり具合もいろいろ。「まっすぐな竹は一本もない」と四代目。
製品にするための竹になるには、加工前にまずこのまっすぐにすることが必要で、この作業を「矯め直し」と言います。
油抜きのあとまだ熱を持ち柔らかい間に、竹を穴にいれてまっすぐにしていきます。曲がっている節を1箇所ずつ押し曲げながら。技と根気のいる作業です。
穴にはいろんな角度やサイズがあります。
この矯め木を作るのも職人さんのお仕事。
矯め木でまっすぐにしたままでは、元に戻ってしまうので、水を吸わせた布で冷ましていきます。
この矯め直しの冷まし加減も職人ワザ!
職人さんの工房。ここからさまざまな製品が生み出されていきます。
出来上がった製品を見にお店にお邪魔します。
ごめんくださいっ!
工場の隣にはショップスペースがあります。
大切に守られ、丁寧に加工された虎斑竹たち。どんな姿に生まれ変わったのでしょう。楽しみ!
竹の昆虫たち
虎斑竹の柄がぴったり、竹の模様のせいで生きているみたいに見えます。
毎日お出かけしたくなる竹の買い物かご
昔からの定番アイテムでしたが、職人さんが高齢で作れなくなった時期もありました。しかし職人さんの努力と熱意で復刻!
40年前から愛されている、ロングセラーの縁台
折り畳み式になっている足の部分は、地元森林組合さんから間伐材のヒノキを分けてもらって、それを焼くことによって耐久性をより高めています。
虎竹の黒さが渋い味わい。寝転んで空を見たくなります。
竹の皮で編まれた室内用のぞうり
三つ又という木製の道具を用いて、熟練の職人さんが一つ一つ手で編み込んでいきます。素足でそのまま履いてもらうことを想定しているので、防腐剤、防カビ剤などは使わず、3年くらいゆっくり寝かせた竹皮を細く裂いて作られます。フローリングの室内履きアイテムとして大人気。
竹のバッグ
精緻な細工と虎斑竹の模様が味わい深いバッグ。
節の場所もちゃんと揃えてある!
このバッグ、実は50年前くらいに海外への輸出用になっていたバッグの復刻版なんですよ。ぜんせん古くさくなくてかっこいいな。セレブが持ってそう。
竹虎(山岸竹材店)さんはもともとこの安和の土地にあったわけではなく、実は大阪天王寺で創業。四代目のひいおじいさまである初代の宇三郎さんが、竹材商としてご商売をスタート。その頃の竹は、人々の生活に深く根ざし欠かせないもので、どんな小さな村にも竹細工職人が一人はいるような時代でした。
良質の竹材を全国で探し回りながら出会ったのが、安和の虎斑竹
虎斑竹が何故かこの安和の谷間でしか成育しないということで、杉や檜の植林の替わりに虎斑竹の成育と生産を地元山主と協力し竹林面積を拡大。神戸にも竹工場を持ち1915年(大正4年)より釣竿製造をはじめ海外輸出も盛んに行うように。
当時はまだよそ者を受け入れるのが難しい、加えてより閉鎖的な土地柄でもあったこの安和。宇三郎さんは虎斑竹の仕入れに大阪からいく度も足を運び、虎竹の里安和の山主の娘さんを妻に娶ることになりました。
安和の土地へ
二代目の義治さんは1941年(昭和16年)に召集され1946年(昭和21年)に復員してくるまで、竹の入荷もなくなり竹材店は休業状態でした。跡形もなく焼け野原となった工場を見て義治はお母さんの実家があり家族の疎開先でもあり、また竹の仕入れ先でもあった安和の虎竹の里に移る決心をします。
当初は製竹した竹材そのものを扱っていましたが、竹製品の製造もスタート。
生産者のみんなにも知ってほしい
1970年(昭和45年)には展示場である「虎竹苑」が完成。二代目の義治さんのこの土地へのご恩返しと、竹の生産者の皆さんに全国のお客様に届けている製品になった竹の姿を伝えたかった、という思いがあります。
工場が全焼
竹虎も三代目義継さんの時代になり、順調だった竹虎も海外製品の増加や日本人の生活スタイルの変化などで、竹の卸売りの取り扱いが減っていきます。そして1984年(昭和59年)、本社・工場が全焼するという苦難が立ちはだかります。
竹が呼んでる
この時四代目の義浩さんは、大阪の大学からの帰省中。竹の声に導かれ裸で駆けつけ第一発見者になりました。油分を含んだ竹がたくさん保管されていた工場は13時間燃え続け、後日聞いた消防士さんのお話だと「化学工場の火事のようだった」そうです。
ちょうど4年生の夏、運命を感じた義浩さんは、翌年竹虎に入社することになります。
なぜ竹屋なんかやっているのか?と思った
もともと社会のことを知りたくて大阪に進学した義浩さん、入社した頃は竹の問屋さんの1/3が自主廃業する、はっきり言って斜陽産業。竹を昔ながら愚直に作り続ける家業に「こんなアホなことしてるのか?」と疑問を持ちます。「田舎だけど竹では中心地」といったプライドや変なルールに戸惑うこともありました。
山へのプライドに挑戦し続ける
お米の代わりに竹を献上していたくらいの土地柄もあり、周りの人たちは竹に並々ならぬプライドを持っていました。「地元の人たちは山に厳しい」。けれどもそう思っているのはこの安和の谷間の人たちだけ。しかし義浩さんは諦めることなく、当時まだ草創期だったインターネット通販に挑戦します。
最初の3年は売り上げが300円くらい。自分で写真を撮ったりページを作ったり、試行錯誤を繰り返しながらも続けていきます。光明が見え始めたのは2001年。ひと月で16万円を売り上げます。
そこからさらに挑戦をつづけ、月商100万円を超すショップへと成長させます。
自分たちの思いが伝わらないから直販だけ
現在はネットでの取り扱い製品も1,000点を超え、通販は安定。時々デパートなどからも声がかかることがありますが、あくまで直販にこだわります。
「作り手以外に誰がコレ説明できる?」
見せてもらったのは竹の名刺入れ。
お客さんに買ってもらうには作り手の思いが伝わることがたいせつ。誰かに売ってもらうのではなく、思いを伝えることができれば売れる。これが通販に挑戦し続けた竹虎四代目の答え。
リアルからネット、そしてリアルへ。
ネットにちょうど出会ってなかったら今はなかった。インターネットは小さい人向きの道具と語る四代目は、自分たち自身がメディアになる必要がある、とも言います。現在は、店頭やECだけではなくFacebookなどのSNSやさまざまなメディアにも積極的に登場し、情報を発信。お客さんと直接つながりを広げていくことで情報も集まってくるようになりました。
現在、海外のデザイナーとのコラボアイテムの開発や、海外への販路拡大、都市部での直売会の開催などさまざまな企みを計画中。衣食住さまざまな分野に竹の可能性を追求しつづけています。
「日本一喜ばれる竹屋になる」と四代目。すでにその目は世界をとらえ、竹の成長スピードを越してしまうくらいの勢いで動きはじめています。
最後にパチリ。竹虎四代目義浩さん、今日はたくさんのお話を有難うございました!
またお伺いさせてくださいぜよ!
【詳細情報】
竹虎(株式会社 山岸竹材店)
電話番号:0889-42-3201
住所:高知県須崎市安和913-1
URL: http://www.taketora.co.jp/
営業時間:平日9時~17時
(text:西村、photo:市岡 ※一部の写真は竹虎さんの提供)
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