100年間、やさしさがずっと変わっていません。 牛乳石鹸
ぎゅうにゅうせっけんーよいせっけんー♫で
みなさんにおなじみのCMソングの牛乳石鹸共進社さんに取材にきました。
牛乳石鹸の安田工場は大阪市鶴見区にあります。
てくてく歩いて行くとほんのりお風呂の中のような香りがしてきます。
創業者宮崎奈良次郎さんの銅像。今日は見学させていただきます。
どうぞ、よろしくお願いします!
門をくぐるとすぐに見えてくるのが、歴史資料館。
工場の見学の前にお邪魔します。
りっぱな牛さんがお出迎えしてくれます。さすが!
石けんの箱にも描かれていて、社名にもある牛。「商いは牛の歩みのごとく」という古い格言にもあるように「前に進んでも後ろに退くな、粘り強く前進せよ」という意味で、まじめで親しみのある牛が、牛乳石鹸の企業理念のシンボルとして選ばれ、大切にされてきました。
3番まであったんです「牛乳石鹸のうた」
牛乳石鹸のうたの展示!CMソングでおなじみの「牛乳石鹸のうた」は、1956年(昭和31年)、民間ラジオ放送の開局まもないころに作られました。実はこの牛乳石鹸のうた、が3番まであるんですよ。歴史資料館ではオルゴールで聞くこともできます。
足踏み式単打ち石鹸成型器!
職人さんが一つ一つ丹念に型打ちしていた時代に実際に使われていたマシン。
石けんづくりへの思いが伝わってきます。
硫黄島で発見された石けん
硫黄島の洞窟で発見された日本兵の遺品の中にあった黒こげの牛乳石鹸。昭和18年のもの。
軍用石鹸として供出していた当時の実物です。
今福の湯(ただし、入れません)
牛乳石鹸では日本全国の銭湯にのれんをキャンペーンを通じて配布しています。
お客さんである銭湯を「町内で一番の社交場」として機能していることに注目!1955年頃から、銭湯に対して、社名入りの暖簾を配布するようになりました。
実はこの暖簾、「北海道型」「東京型」「大阪型」「京都型」と地域ごとに暖簾のデザインが違うんですって!知らんかった。
のれんをくぐるとかわいいミニチュアの銭湯が展示されています。
のれんの横の「わ」の板
のれんの左側の「わ」と書いてある板。これはお風呂が「わ」いた(=板)、「沸いたよ」という営業中の目印。
では、営業時間外は…もちろん「ぬ」です。銭湯豆知識です。いいたくなる。
のれんをくぐってお邪魔してみよう。
おなじみの富士山や看板、小さな洗面器や桶まで細やかに再現。ずーっと見てても飽きません。
じっと見すぎてちょっと温まってきた心地。のぼせないようにしないと。
脱衣場の中のテレビではCMが流れています。
よくできてるな!
ひとっ風呂浴びた気分で工場見学へモー!じゃなくてゴー!
この安田工場の敷地は甲子園球場1.2個分、約200人の従業員の方が働いています。
石けん工場としては日本最大級の規模。
石けんを作っている素地建屋(そじたてや)に潜入。
扉には、赤箱青箱のパッケージが描かれています。実はこの扉の絵、従業員の方が描いたもの。
この人が扉の絵を描いた宮崎さん。毎日お昼休みを使って少しずつ。約2ヶ月かけて描き上げた大作。ギャラはペンキ代のみ!愛社精神に頭が下がります。
石けんの製造の流れは大きく4つ。
その(1)ニートソープ(石けん素地)の製造、次に(2)香料の配合、(3)型打ち、最後に(4)包装。
まずは、ニートソープづくり。ニートソープとは純度の高い液状石鹸で水分が約30%含まれている牛乳石鹸のもとのこと。
この素地建屋の中には60トンのけん化釜が11基あり、1釜で約25万個の石けんが作られます。
牛乳石鹸では昔ながらの釜炊き製法が採用されていて、釜に原料を入れて加熱し、上層部に集まった成分で石けんを作っています。職人さんの目と技勝負のところが大きく手間もかかるのですが、今もこの製法を続けています。
暑〜い
この建屋の中は釜がたえず加熱中なのでとても蒸し暑い。お伺いしたのは5月ですが、夏になるともう強烈な暑さ、蒸し風呂状態になるんだそうです。従業員のみなさんはこれからが大変だなぁ〜。
原料の牛脂、ヤシ油と水、水酸化ナトリウムを釜で加熱かく拌し、反応(けん化)させます。
約1日後、食塩水を加え、ニートソープと不純物(石けん甘水)に分離させます。
煮混ぜて1週間程度熟成させた後、
石けんの皮、言うなれば「ゆば状」になった上の部分を切り分けていき、
ノズルが倒れて
約1時間かけてニートソープがそのノズルから汲み取られていきます。ひとつの釜からとれるニートソープは約30トン。
次の香料の配合や型打ち工程にそなえ乾燥させて水分を調整し、加工しやすい粒状のチップになります。
この時、まだ香りはついていなくてそれは次の工程で。
ちなみに不純物として取り除かれた石けん甘水は、釜の下部分から出てきて、
香料や、うるおい成分であるバターオイル、スクワランなどが配合されます。
ちなみにこのスクワランは深海鮫の肝臓の油なんだそうですよ。
この工程で、配合する成分や量を調整することで、クリーミィな泡でしっとりとした洗いあがりの赤箱と、ソフトな泡でさっぱりとした洗いあがりの青箱、それぞれの特長が出てきます。
次に押し出しと型打ち!
香料などの混合の後、リファイナー(混練機)でよく練られます。香料など成分が混ざったといってもまだ表面にしかついていないので、40〜45度くらいの温度でよくネリネリ。
このマシンの中には、こんな目板状のフィルターが入っていて均一に混ざるような工夫がされています。
均一にした後はプロッダーという機械で、棒状の石けんに押し出されます。
ポキリッではなくグニャリ〜
これから石けんの形に成型していくので、まだやらわかい状態です。
型打ちとは成型のこと。この金型はマイナス15度で冷やしています。やわらかい石けんは冷やし固めるんですね!型で抜いて、
型抜きされた石けんのミミは、再び石けんになるため、リファイナー(混練)工程に戻っていきます。また会おう!!
石けん石けん石けん〜♪と聞こえそうなくらい楽しそうに流れてきます。
型打ちされた石けんたちは、X線検査機(レントゲンのようなもの)でひとつひとつ異物が混入していないかマシンでチェックされます。
さらに15分に1回、人の手で検品を行います。
この時の検査は色合いや表面キズ、香りなど。
香りは実際に嗅いで丁寧にチェック!
人の肌に直接触れるものなので、検査はとても大切な工程です。
気持ちを込めてチェックしております!
ピロー包装機と呼ばれる石けんを封入するマシン。
フィルムが熱溶着され袋になり、一つひとつ石けんが入っていきます。
箱詰めへ、そしてお店、みなさんのお風呂へと届けられていきます。
工場の構内にはお風呂もあります。一生懸命働いた従業員のみなさんが、汗を流す場所。
裸のつき合いがチームワークの証なのかな!
創業当時、初代の赤箱です。
どっしりとした牛が特徴です。
牛乳石鹸「赤箱」のパッケージは少しずつ変化していますが、ひとつ変わらないのが、牛のマークのイメージ。「目元は愛らしく、しっぽは行儀よく、足元は清潔に」といううポリシーはしっかりと守られています。
牛乳石鹸のはじまりは。1909年(明治42年)。大阪市東区清水谷(今の天王寺区)で「共進社石鹸製造所」石鹸製造を開始しました。「共進」は文字通り「社員及び社会と共に進む」という意味なのだそうです。
当時の大阪は、全国の石鹸工場の中心地。今でも複数のメーカー工場が存在しています。
小さな町工場としてスタートした牛乳石鹸は、創業者の宮崎奈良次郎さんの人柄と手腕が買われ、順調に業績を伸ばしていき、やがて大阪における有力石鹸メーカーに。
当時、大半の石けん業者は、問屋の商標による請け負い生産をしていましたが、問屋の力が強かった時代で、牛乳石鹸も例にもれず、京阪神の有力問屋50店以上の留型石鹸をそれぞれの商標で製造していました。今でいうOEMですね。
共進社石鹸製造所でも佐藤貞次商店の「牛乳石鹸」を生産していました。
創業から着実に歩みを続け20年目。1928年(昭和3年)に自社ブランドでの製造販売が始まります。佐藤貞次郎商店から「牛乳石鹸」の商標を譲り受け、以後は、自社ブランド「牛乳石鹸」として製造販売することになりました。
同じ頃にできた新工場。現在の本社所在地である大阪市東成区今福に建設されました。
しかし、昭和初めの太平洋戦争の戦争経済統制のもと、石鹸業界も当時全国に450社あったものが、40数社を残すのみとなってしまいました。原料の入手が困難を極め、輸出用の石鹸の製造も思うようには行かず、ベントナイト(粘土の一種)入りの粗悪石鹸が認められるようになり、労働力も軍需産業にとられるなど業界としては、絶望的な状況。
こうした中、日本の敗戦が色濃くなりつつある1945年(昭和20年)、激しい空襲により今福工場は全焼してしまいます。牛乳石鹸は一時休業に至りました。
これは戦後間もなくの1949年(昭和24年)から使用された赤箱。2代目の牛は少しスマートになりました。
牛乳石鹸共進社は社員が一丸となって工場再建に乗り出し、小規模ながら、生産を再開。
ずーっと花の香り
粗末な石けんが出回っていた戦後の混乱期。
「貧しく、つらいときだからこそ花の香りがただよう石けんをお届けしたい!」そんな思いから、採算を度外視し可能な限り良心的な石鹸を製造しようと、焼け残ったわずかな香料をも配合し、化粧石鹸を製造したそうです。
少しずつ時代にあわせて香りは変化していますが、花を基調としたやさしい香りはそのころの思いが受け継がれたものです。
民間ラジオ放送のはじまりとともに牛乳石鹸は、全国のお茶の間に楽しい番組の提供をスタート
「モー」と聞けば「牛乳石鹸」。小さな子どもたちにまで、「モーモーの石鹸」と親しまれるようになりました。
テレビ放送もスタート。中でも、1961年(昭和36年)に放送開始となった「シャボン玉ホリデー」は民放初のカラーミュージカル番組として大ヒット。この番組は、11年もの長きにわたって人気を保ち、牛乳石鹸の代名詞的になりました。
昭和38年こちらの安田工場が完成。最高の生産設備と最新の製造技術を導入し、当時は東洋一の化粧石鹸マンモス工場として稼動。
1974年(昭和49年)の赤箱。
この時のパッケージの背景がピンクに。不景気な時代に華やかさを求めたのでしょうか。
1970年代から80年代時代は高度成長から成熟期へ。石けん業界でも「ニーズの多様化・細分化」が起こります。
めまぐるしく変わる消費者のニーズに合わせて、商品の種類が一挙に拡大したのもこの時期。
石けんという商品も、一人ひとりの生活スタイルにあわせてよりパーソナルな存在へと変化する必要がありました。
現在はボディソープやヘアケア、入浴液など多彩な商品ラインナップになりました。
その後、赤箱は少しずつ書体や牛の大きさを変えながら、
2013年(平成25年)の赤箱。現在のものです。
角が丸くなり、優しいイメージに。はじめて「赤箱」という文字が入りました。
「やさしさ」という品質を大切にしています。
牛乳石鹸のコーポレートメッセージは「ずっと変わらぬ やさしさを。」
牛乳石鹸には、安心・安全という守らなければならない品質はもちろん、新しい機能・使いやすさや豊かな気持ち、安らぎを使う人に価値として提供したい、という思いが込められています。
100年以上の歴史を持つ牛乳石鹸、これからもみんなに愛されていくと思った工場見学でした。
ご案内いただいた、上野さん、後藤さん、山中さん!今日は楽しい見学を有難うございました!
【詳細情報】
牛乳石鹸共進社株式会社 本社
電話番号: 06-6939-1451(代)
住所:大阪市城東区今福西2丁目4番7号
URL: http://www.cow-soap.co.jp/
安田工場
電話番号: 06-6911-1461(代)
大阪市鶴見区中茶屋2丁目1番14
※現在、一般のお客様の工場見学、資料館見学は受け付けておりません。
(text:西村、photo:加藤 ※一部の写真は牛乳石鹸共進社さん提供)
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